November 11, 2015

ジェネリック薬の話。


 ジェネリック薬に医師の半数以上が不信感、というニュースが流れて、それについてなんだかんだと議論されていたので、私の思うところをメモっておきますよ。

 私の知識が正しければ、ジェネリック薬って分子構造や製造方法についてのパテントの切れた薬を後発メーカーがコピーして製造しているやつですよね。研究開発費もかかってないし、パテント使用料もかからないので安く製造できる薬。

 で、同じ分子構造なら、薬効は同じなはず。落ちぶれたとはいえ先進国の日本のことですから、その品質くらいはちゃんと保持されているはずなので、服用を特に心配することはないと思います。

 それでも、不信感があるとか、効き方が違う主張する人が少なからずいらっしゃる。「信頼できる医者が効き方が違うと言っていた。」「私もジェネリックは効きが悪かった。」・・・。それはその人にとっては真実で、否定はしません。しかし、疫学的、統計学的には何の意味もない話ですよね。「信頼できる医師がサイコロを振ったら6が出ると言ってた。」「私もサイコロでは6が出た。」と聞いても、では私が次にサイコロを振ったら何が出るかということについては何の示唆もない、それと同じようなことで。
 
 それに、その薬を朝飲んだのか夜飲んだのか、空腹時だったか満腹時だったか、症状が重い時に飲んだのか軽い時に飲んだのか、他にコントロールすべき条件が何にも分からないし、「ジェネリックは正規薬の劣化コピーだ」という先入観、心理的効果もあるでしょうし。一種のプラシーボ効果とも言えそうですけど。

 医師の半数以上が不信感って言ったって、医師にも「ジェネリックは怪しい」という先入観を持っている人はいるでしょうし、患者の方にも同じ先入観を持っている人がいる。他方、「ジェネリックでも同じだ」と思っている医者、患者もいるはずで、そういう心理的な影響が複雑に絡み合ってるに違いない状況下で、適当に「ジェネリックをどう思いますか」とアンケートした結果なんて、ジェネリックの薬効の否定にはなんら繋がらない。しかも、元記事には調査方法が書いてないし、調査対象の母数さえ分からない。疫学的、統計学的には無意味、ただ「一般的な印象はこうです」っていうだけの調査に過ぎません。

*   *   *

 しかしそれでも、ジェネリックの薬の効き方がオリジナルとは異なるというのはあり得る話です。それは、薬効成分が同じでも製薬メーカーが違えば、錠剤や頓服に加工する時の設計が違ってくる可能性があるからです。たとえば同じ薬効成分の物質を同量使って錠剤を作るとしても、飲んだらすぐ溶け始めるようにするか、一定時間経ってから溶け始めるようにするかの違いはある。また、溶け始めたら短時間で溶け切るようにするか、時間をかけて徐々に解けるようにするかの違いもある。そんな薬の設計の違いによる効き方の差というのはあるはずです。

 とはいえ、それはもはや、ジェネリックかオリジナルかという話ではないですよね。薬の設計が違うという話です。

*   *   *

 ということで、自分だったらどう選ぶか。私は、一時期だけ必要な薬であれば、ジェネリックにします。薬の設計の違いなんて飲んでみないと分からないし、体調悪い時にいちいち気にしてられないので、薬効が同じなら安い方でいい。他方、長期間飲み続けなくてはいけないなら、ジェネリックでもオリジナルでも、薬の効き方の相性のいい方を選びます。よく効くのがいいのか、すぐ効くのがいいのか、長く効くのがいいのか、その時の状況に相応しい方と選びますよ。で、どっちでも変わらないなら安いジェネリック。

 保険医療費の国庫負担が膨らみ続けている昨今、可能な限りジェネリックに切り替えるよう推進するのは理にかなっていると思うんですけどね、私は。
 

 

November 03, 2015

嫌いなポン菓子。



 母はポン菓子が嫌いだという。貧しい家で両親共働き、2人の弟がいて家事は小学生の時から自分の役目。そんな幼き日の母が、ちゃぶ台の上に置かれたわずかばかりのお金を持って夕餉の買い物に行くと、街角にポン菓子屋がいる。

 米と砂糖と幾ばくかの小銭を渡すと、「ポン!」とその場で菓子を作ってくれるのだが、母にはそんなことに使える米も砂糖も小銭もなかった。なのに、買い物についてきた下の弟が、「姉ちゃん、ポン菓子食べてみたい。」と母の袖を引くのだ。

 いつもいつもそうやって、ポン菓子屋が「ポン!」とやるのを見ていたので、今でもポン菓子を見るとあの頃を思い出してしまうのだと。だからポン菓子は嫌いだと。

 「ポン菓子食べてみたい。」と言っていた下の弟、すなわち僕の叔父は今年、母より先に逝ってしまいました。享年六十二。指にくっつく甘いポン菓子を食べながら、遠い日の母と叔父を思う秋の夜長です。

September 26, 2015

10年ぶりのインド、20年ぶりのバラナシ。


 久しぶりにインドに行きました。デリーは10年ぶりくらい。バラナシに至っては1996年以来の20年ぶりです。インド自体は5、6回行ってるのでそれなりに勝手は分かってるつもりでしたけど、このご時勢、それだけ年月が経つと一体どうなっているんでしょう。


 20年前には、暗く混んでて臭くて悪そうな人がいっぱいいて、白タクの運転手に引っ張り回されてすごい緊張したデリーの空港は近代的に生まれ変わってて、地下鉄も出来ててすんなり市内まで到着。しかし地下鉄の駅から地上に出てみると、・・・インドでした。

  思い出しましたよ、ここを「機能する無政府状態」と呼んだ人がいたことを。物売り、乞食、調子のいい若者、痩せた肉体労働者、死にかけの人、哲人風の男、サリー姿の恰幅のいいおばさん、不具者、牛、バイク、リクシャー、何をやっているのか分からない人々。混乱無秩序ながら、すべて渾然一体となって流れておりました。10年前とは違って人々の手にはスマホが握られていたけれど、インドは、インドでした。



 デリーのジャマーマスジッドのミナレットにも登ってみました。イスラム教のEidのお祭りが近いせいか、モスクの前の市場は賑わってました。おそらくはEidのご馳走で食べられてしまうヤギもたくさん売買されてて。
 しかし20年。ニューデリー駅前のメインバザール、パハール・ガンジを覗いてみると、昔と変わらず怪しい安宿や、ドレッド風の髪のダラダラした格好で鼻ピアスなんかしてる白人カップル、サンダル履きで襟首の伸びきったTシャツのアジア人のバックパッカーやらを見かけましたが、もうそこは、僕のいるべき場所ではなかったです。変わっていたのは僕の方でした。そもそも僕の荷物はバックパックではなくTUMIのキャリーケースですし。


 そして飛行機でバラナシへ。新しいLCCが国内線をたくさん飛ばすようになっているので、20年前は夜通し鉄道で渡ったインドの大地を、あっけなくひとっ飛び。あの鉄道の旅もいいんだけど、もうあの時のように時間を贅沢には使えない。体力も足りない。




 小舟でガンジス川に出てみる。ついでに対岸まで行ってみる。ボート漕ぎの兄ちゃんは4人の子持ちで大変だというけれど、人が景色を眺めている寸暇にスマホでツムツムみたいなゲームをやっておる。父ちゃん、しっかりしてくれ。


 天気予報は終日雷雨、降雨確率80%みたいなこと言ってたのに、ずっと晴れ、時々曇り。砂埃のせいか霞んでいるけれど、日差しも強くて暑く、体力を消耗します。もう学生ではないのでちゃんとエアコンの効く部屋に宿泊し、タクシーやリクシャーも躊躇せず利用し、ケチらず食べたい物を食べ、小道が入り組む迷路のような街では迷子にならないようにガイドを頼んでも、やっぱりくたびれます。





 体力を消耗するのは、もちろん暑いとか食べ物が違うとかいうのもあるんだけど、やはりこの街の喧騒、五感に流れ込む情報量の多さが原因です。いつもと違う種類の刺激が一気に入ってきて処理できない、処理にエネルギーを要してるんだと思うのです。「刺激が横溢して単調」と評したのは和辻哲郎でしたかね。イコライザーで全ての音域のボリュームを「大」にしているような刺激の横溢です。




 聖なるものも俗なものも、生も死も、美しいものも汚らわしいものも、豊かなものも貧しいものも、あらゆるものが目の前に放り出されているようなところです。偉そうで感じの悪い人、騙そうとしてくる人、親切な人、クソ真面目な人、ひょうきんな人。いろんな人いるのは当たり前なんだだけど、みんなそれを取り繕ったところがなく、息づく営みをありのままに見せられるような体験です。

 結局僕は、こういう喧騒の中に身を晒すためにインドに来ているのかもしれないですね。




 夕飯時に会った日本人学生や空港で見かけた日本人バックパッカーは、似非ガイドにぼったくられた話とか鉄道の切符の買い方とかお腹を壊した話とか、お馴染みの話題で盛り上がっていました。

 彼らは20年前の僕だ。このインド旅行から持ち帰った経験が、彼らのその後の人生を豊かにしてくれますように。旅を続けるという彼らに、使い残した「キレイキレイのウェット除菌シート」「キンチョー蚊がいなくなるスプレー(12時間用)」や「三ツ矢サイダーキャンディ」を進呈しながら、そう願わずにはいられませんでした。

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 おまけ。バラナシの街で世話になったガイドのSunilくん。観光客は隙あらばお金を出させようとするやつに付きまとわれるので、最初からひとりに決めてチップを弾んでおくと面倒がなくっていいですよ。見所も効率良く周れるし。Sunilくんのおかげで快適で効率的な観光ができました。

August 16, 2015

名実ともに「もはや戦後ではない。」

僕が小学生の時分には、まだ「おじいさん、おばあさんに戦争の話を聞いてみましょう。」という夏休みの宿題がありました。当時は戦後30〜40年、戦争体験者の多くがまだ存命だったのです。

9月。二学期が始まって、それぞれが聞いてきたおじいさん、おばあさんの戦争の話を教室で披露するんだけど、なんか僕のだけ空気が違う。みんな、つらく悲しく悲惨な話で、「だから戦争はいけません。」という結論になるのだけど、なぜか僕の持ってきた話は武勇伝。お盆に父方の実家に行った折に曽祖父に聞いてきた戦争の話は、妙に勇ましいエピソードが続き、最後は戦勝を喜んだところで終わっている。

そう、僕の曽祖父が出征した戦争は第一次世界大戦で、僕に語ったのもそのときの体験だったんです。彼は第二次世界対戦の終戦時には50歳手前、高齢で徴兵されなかったらしい。どおりで話が合わないわけです。

*   *   *

そして戦後70年。その曽祖父も僕が大学生の時に96歳で他界。

第一次世界大戦を覚えている人はほぼ絶えて、第二次世界大戦の体験は歴史と呼び換えられています。直接戦争を体験した人の声を聞くことも減り、名実ともに「もはや戦後ではない。」時代なのだなと、8月14日に発表された戦後70年総理談話を読みながら改めて実感しております。

May 15, 2015

東京都青ヶ島村を歩く。


 東京の南約360km、周囲9km の火山島。人口166人(2015年5月)の日本で一番小さな地方自治体、東京都青ヶ島村。船もヘリコプターも天候次第、「行けるのか、行けたとして予定どおりに帰ってこれるのか」、天気予報に気を揉みながら二泊三日で出かけてきました。

 羽田空港から八丈島まで飛行機で50分。そこからヘリコプターで20分。・・・のはずが、八丈島に着いた時点でヘリ欠航のお知らせ。そんなに天気悪くないのに。晴れ間ものぞいているのに。

 「空港から底土港までタクシーで急げば、青ヶ島行きの船に間に合うかもしれません。」ということで港までダッシュして、なんとか「あおがしま丸」に滑り込み乗船。

 *   *   *

 八丈島から見ると、青々とした海に浮かぶその様から「青ヶ島」と呼ばれるようになったとか。そんな言われを聞かなくても「青いな」と独りごちた海でした。
 島に近づいてみれば、なぜヘリが欠航したのか納得です。切り立った崖に囲まれた島の上部は雲の中、ヘリポートも厚い雲の中なんですね。



 現在稼働している港はこの三宝港のみ。断崖にトンネルを掘り、その先にコンクリートの桟橋を無理やりくっ付けた体の港です。
 上陸してみればそこは軽自動車の王国。潮風に吹かれて塗装がくすんだ軽自動車で、細く曲がりくねった道を進むと、やがて舗装が途切れ、その先は徒歩。







 きれいな二重カルデラの外輪山の頂、大凸部(おおとんぶ)に出ます。標高423m。360度、全方向水平線。島の中央の丸山は18世紀の噴火時の火口だそうです。


 丸山の山肌から吹き出す蒸気。この蒸気の吹き出し口が「ひんぎゃ」で、この熱を利用して製塩をやってます。地熱を利用した公営サウナもありました。



 夕方にはすっかり雲も晴れ、島で上がった魚と島で作っている焼酎「青酎」をたらふくいただき、夜には宿の表の道に寝転んで美しい星空を眺めて。そのまま寝ちゃいたいくらいだったけど、風邪引かないうちに部屋に戻って就寝。
 (ちなみに、青酎の製造所に税務署の人が酒税の査察に来たのは1990年代に入ってからで、青酎は長らく密造酒と変わらない扱いだったそうですよ。まあ、行きにくい島だし、製造量は少ないし、税収より徴税コストの方が高くつきそうですからねえ。)



 朝飯は7時半と聞いていたのに、6時頃ノックの音が。「雲海が出てるってよ。」
寝ぼけ眼で軽自動車を運転し、都道236号線「青ヶ島本道」を行くこと5分。絶海の火山島に雲海って、絵に描いたような景色です。



 この日、昼前から雲が広がってきたので、その日のうちに船で八丈島に戻ることも考えたけど、明日はヘリは飛ぶだろうと期待し、また仮にヘリが飛ばなくても「あおがしま丸」の臨時運航で帰れるだろうと高をくくって、もう1泊を決心。午後は小雨降る中、三宝港で魚釣りです。魚釣りする人と宿でお知り合いになったので、ご指導賜わることができました。で、夕飯は釣れたメジナを刺身と煮付けにしてもらってご満悦。





 翌朝は晴れて、ヘリコプターも無事運航。往路は船で3時間かかったのに、復路は20分です。

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 割と古い時代から人が住み、18世紀「天明の大噴火」で多くの犠牲者を出して一時は無人島になったものの、19世紀初頭に再定住「還住(かんじゅう)」を成し遂げたと言います。海の難所の火山島、断崖絶壁の脆い土地なのに、住めば都か、愛しい故郷だったんでしょうね。

 人々はみんな顔見知り、東京都内とは思えないユルい暮らし。午前7時半の羽田空港発八丈島行きの飛行機に乗れば、ヘリコプターに乗り継いで午前10時前には上陸できる異世界の島、青ヶ島。行ってみる価値ありです。



(追記)
 それにしても、この島の港、連絡船、ヘリパッド、学校、発電所、道路、上下水、役所、警察。たとえ人口166人でも人が住むとなるとこれだけの公共施設が必要になるわけですね。まあ、そのおかげで観光にも行けるんですが。
 調べてみたら、村の予算は毎年10億円程らしい。村民1人当たり約600万円。都内屈指の富裕な区、港区でも区の予算を人口で割ると約70万円なので、青ヶ島村の例外扱いぶりが際立ちます。ちなみに、予算10億円のうち村税収入は3500万円くらい。島の暮らしはみなさまの税金で維持されております。

January 31, 2015

40代ってもっと大人だと思ってた。


新卒社員がすぐ辞めてしまうというのは、いつのころからか手垢のついた話題になってしまいました。「若者はなぜ3年で辞めるのか?」が出版されたのは2006年です。

私事で恐縮ですが、僕は初めて入社した会社に入社後10か月そこらで退職願を出しています。1997年のことです。就職氷河期が就職「超」氷河期と呼ばれ始めたころ。大学や研究室とコネやツテがある就職先を検討せず、さりとてどこかアテがあるわけでもなく、社会に出て働くということへの認識もあやふやで、といってそれ以上研究生活を続ける頭脳も気力も無く、ほとんどなりゆきで入ったのがその会社でした。

「違う。」
生活していくためには避けられないこととはいえ、お給料のためにこんなことをやり続けるというのが「働く」っていうことなの? 幼稚園、小学校から始まって大学院まで、両親をはじめたくさんの人たちに苦労をかけて育てられ、学ぶ機会を与えられてきたのは、結局こんなことをするためだったの?

旅にも出た。
本格的なバックパッカーではなかったけど、何度となく飛行機に乗っては、タイやインドやネパールを歩いてみました。自分探し?だったのかもしれない。旅に出たからといって何か結論が出たり、新しい自分が見つかったりしたわけではないけど、立ち止まって自分とその周りを俯瞰して物思う時間が取れたのはよかったのだと思う。

退職届を出して、いくつかの違う仕事もやってみました。これかな?それともこっちかな? そのとき目の前にあった選択肢の中でもっとも自分らしいもの、納得できそうなものを選び、期限付きの非正規の仕事もやりました。仕事に振り回され、気がつけば体を壊してしまったこともありました。「おまえ、いつ会っても就職活動してるな。」そんな風に言われた時代でした。

そして気付いたら40代。
なんとか自分の食べる分は稼いでます。年齢を重ねて、そうそう簡単に仕事を変われる状況ではなくなったのも確か。なんだかんだ言いながら進路を選び、代わりにいろんな可能性を捨ててきて、選択肢は新入社員の頃よりも少なくなっているのもまた確か。体力も昔のようにはいかないし、親も年を取ったし、この年齢で路頭に迷うようなリスクも取りたくない。

それでも。
今のまま、このままでこのレールに乗っかり続けるのは違うんじゃなかろうか。20代、30代の頃のようにフットワーク軽く仕事を移るようなことはしないし、できないと思うけど、ずっとこのままというのも違う気がするのです。

きっとこれからも足掻き、模索し続けるんだと思います。
スポーツだって、ゴールよりプロセスが楽しい。そりゃ勝てるのなら勝つ方が楽しいし、ゴールには一番にたどり着きたいけど、ゴールに向かって足掻くそのプロセスがスポーツの醍醐味っていうもんでしょう。ただ、いつゴールにたどり着けるのかわからないし、そもそもゴールってなんなのかも漠としているゲームなんですけどね、今僕がやっているのは。

40代ってもっと大人だと思ってました。いや、もっと大人の40代は世の中にたくさんいらっしゃるんでしょう。しかし僕は、「四十にして惑わず」そんな境地とは程遠い40代のリアルです。

*   *   *

ゼロになって、ちゃんともがく。(by 糸井重里)

January 04, 2015

謹賀新年 -2015-


あけましておめでとうございます。

変わらないようで、遷り変わっていく。
見失うことなく、変化を恐れることなく。

2015年が良い年になりますよう!

Everything moves with the times, although they look same.
Not to lose a way, but not to be afraid of changes.

Wish you a very happy new year!